かぐや姫の物語 考 其の二
水=捨丸 説
捨丸たちと遊ぶとき、かぐやは裸になって川に飛び込む。
また、かぐやが大人になって子供時代のように遊ぶときも、彼女は雨に濡れ、最期は水に落ちる。
水丸は地球の象徴なのだ、という説を聞いた。なるほど、まったく気づかなかったがそうだろう。世の中には、こういうことに気づく人が居て、もちろん、それを仕組む人がいる。みんな頭いいなぁ。
退屈は必要 説
貴族5人に求愛されたあたりで、物語としては中だるみする。俺も書いたが、あらすじを知ってるからである。あの時間を「かぐやの気持ちになるために必要な演出」とする説を聞いた。
果たしてそうだろうか。わざと中だるみを、高畑監督はさせるのだろうか。2時間のエンターテイメントにそんな要素を詰め込むだろうか。
でも、詰め込むかもしれない。退屈させたくないのなら、もっと新要素を詰め込むだろう。捨丸以外にも、もっと膨らます要素があっていいはず。
退屈な時間すら意識的に盛り込んだというのか。大物ってすげぇ。
ほかに
あと、やっぱり捨丸に妻子がいることは引っかかる。かぐやに誘われたら、ためらいなく妻子を捨てて逃げ出そうとする捨丸に引っかかる。それでいいのか。落語みたいな話だ。
かぐや姫の物語 考
高畑勲の最新作、ようやく見た
親不孝ですがようやく視聴、なんて言いそうなくらい延期に延期を重ねた視聴。
素晴らしい出来だった。
宮﨑駿との差
よく対比させられる、「風立ちぬ」との対比について。
宮﨑駿は生きる意味について、「理想のために死ぬ」べきだと捉えているのに対し、高畑勲は生きる意味を「好きなことをするために生きる」べきだと捉えている。そういう意味ではかぐや姫の物語の方が「生きろ」というコピーに近いと思う。風立ちぬはどちらかというと「何のために死ぬ?」という方が正しい。
ふたりとも「〇〇のために生きろ」という哲学はあるのだが、宮﨑駿の方が限定的で理想主義的であるのに対し、高畑勲は開放的で奔放。
主人公を見ても、堀越二郎は「飛行機を作るために生きて死ぬ」のに対し、かぐや姫は「何がしたいのか考えて悩んで、答えをみつけて死ぬ」。宮崎・高畑おじいちゃん二人の作品に対するメッセージは歳とともに直接的で強烈になっているように感じた。
やはり人生の終焉を考えているのではないか。
気になるところ
とにかく増長。物語としては原作にある程度忠実なので、「この先どうなる」という引っ張りが弱い。なので、ともすると眠くなる。
原作と大きく異るのは捨丸の存在。かぐや姫の憧れのお兄さん的な存在で、淡い恋心を抱くのだが、彼の存在は正直、使いきれていないように思った。
「実はかぐや姫も恋をしていたのですよ。そこに未練もあるんですよ。」
ということだけなら、その存在意義は若干弱い。あと、いまさら自然の中を飛んで「自然礼賛!」みたいな演出は白ける。「またそこかよ」とすら思える。
素晴らしいところ
なんといってもアニメーション。風のふく様、花びらの散る様、服が走ってはためく様。素晴らしい。
そしてジブリらしい良い点がいくつか。サンキュータツオさんが「ジブリらしさとは女の子が走ること」という旨のことを言っていたが、大方同意。僕としては「ジブリらしさとは女の子が自分の興味あるものに目を大きく見開いて興味をもって、それに向かって全速力で走ること」である。長いか。
おわりに
地井武男さんの演技はまさに迫真。泣きかけた。最近親になったからか、子どもを愛する大人の様というのにグッと来る。地井さんの演技はその「おじいちゃんが孫を愛する様」バージョンだ。ぐっと来る。思い出すだけで泣ける。
子ほめ 考 其ノ二
前回の子ほめの続きです。
「へぇ、ありがてぇありがてぇ。あのご隠居は話は長いけれど、なかなか言うことはいいいよ。顔はまずいけど言うことは良い。人間何かしら取り柄ってのはあるんだなぁ。おっ、あっちからおあつらえ向きの色黒が来るよ。こんつぁ!こんつぁ!」
「……こんちは」
「しばらくお目に掛かりませんでしたが、どちらへおいでですか?」
「失礼ですけども、貴方様はどちら?」
「え?知らないよ?……お前さんどちら?」
「こっちが聞きたいよ。」
「色が黒いね。」
「大きなお世話だい!」
「あぁ、行っちゃったよ,ああ,丸っきり知らねえヤツはダメなんだなあ,知ってるヤツァ来ねえかなあ。あっ,来た,案ずるより産むが易しってのはこのことだなぁ。伊勢屋の番頭,おーい!番頭さーん」
「いよー,これはこれは町内の色男!」
「あれ。向こうのほうが上手いね。こっちでご馳走しなきゃならねぇかな?……しばらくお見えになりませんでしたが、どちらへおいでですか?」
「夕べ湯屋で会ったよ」
「そうかい。それから,ずっとしばらく」
「変だね,どうも。今朝,納豆屋で会ったよ」
「よく会うねえ,じゃ,いつぞやにしばらくってことがあったね。」
「おお,商売用で上方へな。」
「おっ!おあつらえ向き!道理でたいそう・・・ツラが真っ黒で」
「そんなに黒い?」
「真っ黒。どっちが前だか後ろだかわからないよ。かろうじてその潰れた鼻が教えてくれる」
「おい,やだよ」
「どうでえ,一杯おごるか」
「おごらないよ,そんなこと言われて」
「おごらない?おごらないの。いいよ,こっちは奥の手ってえのがあるんだから。失礼ですが番頭さんおいくつ?」
「どうも,往来の真ん中で歳を聞かれると,めんぼくないね」
「めんぼくないの?ないの?」
「あるよ。こいつだ」
「四つか」
「四つだってよ,ずっと上だ」
「四百!」
「その間だ」
「二百!!」
「四十だよ。」
「四十!そうでしょう。四十にしちゃあたいそうお若く見える。どうみても厄そこそ・・・ありゃ、どうにも具合が悪いね。四十五より上を仕入れて来ちゃったからねぇ。都合が悪いよ。」
「どうして」
「すまねえけど四十五になってくれ」
「なってくれって,勝手になれるかい。大体人っていうのは少し歳を若く言いたいもんだよ。」
「わかってるって。分かってる。それをすべて飲み込んだ上で、言っているんだ。ちょっとだけ、番頭さん、四十五になってくださいよ。」
「そうかい,じゃあまあ四十五だ」
「四十五にしちゃあ,たいそうお若く見えます」
「当たり前じゃねぇか」
「どう見ても厄そこそこだ」
「何を言ってるんだい!」
「……なんだい。怒っていっちゃったよ。大人はどうも人の話を聞かなくて困るな。もういいや、竹のところいって、子ども褒めちゃおう。こんつぁ!」
「なんだよ、乱暴なのが来たよ。こんつぁ。」
「おう、てめぇのとこじゃ、この度はご愁傷様だってな」
「何を言ってやんだい」
「なんでも、子どもが生まれて弱ってんだろ?」
「子どもが生まれて祝ってんだよ。」
「ああ,そうか。弱ってんのは俺の方だ。五十銭取られて。」
「おめえ何しに来たんだ」
「あの,赤ん坊を褒めに来た」
「赤ん坊を褒めに来たんなら,そこで何か言ってねえで,上がれよ,こっち奥に寝てるから,見てくれ」
「お,どうも,ご免よ,俺ね,赤ん坊褒めさせると一人前なんだ,あの,この屏風の中かい。そうかい,ほう,大きいねえ」
「大きいだろ,うん,産婆さんもそう言ってたよ。大きいってんでね,ウチ中で喜んでんだよ,大きく生んだほうがいいんだってよ」
「どうも,大き過ぎたなあ,じいさんに似てるねえ」
「血筋は争えねえもんだな,よくじいさんばあさんに似るって言うじゃねえか」
「そっくりだねえ,この頭のハゲ具合ねえ,皺の寄り具合ねえ,歯の抜け具合。え,いや,あの,このねえ,どうも,よく似てるねえ,そっくりだ」
「そりゃあ爺さんだよ。」
「ああ,そうかい,じいさんかい,あんまりそっくりで変だと思ったよ。赤ん坊にしちゃあひねこけちゃって,第一,赤ん坊が入れ歯はずして寝てるわけはねえな」
「当たり前だよ,その向こうだよ」
「あっ,こんなとこに落っこってやがった」
「落っこってって,寝かしてあんだよ」
「小せえなあ。こりゃ育つかな」
「何を言ってやがんだい」
「ずいぶんと小さいよ。こりゃあ今のうちに絞め殺すのが親の慈悲じゃねぇかな。」
「このやろう、ぶつよ。」
「はあ,でも、小さいけど紅葉のような手だな」
「おっ、いいことを言うね。たまにそういうことをいうから俺はお前さん好きだよ」
「でもロクな大人にならないよ、こいつは。こんな小さな手をして俺から五十銭ふんだくったんだからね。」
「やめろよ。」
「でも…お人形さんみたいだな」
「うまいこと言うねえ,おめえだけだ,人形みたいだって言ったのは」
「お腹を押すとキュキュッて泣くよ」
「おい,よせよ,壊しちゃうよ」
「うん、うん。じゃあ、そろそろ。竹さん、これがあなたのあなたのお子さんですか」
「俺の子だよ」
「本当?違ったって女は言わないんだよ。」
「また始まった……」
「大層ふてぶてしくございます。」
「?」
「おじいさんに似て長兵衛でございます。センターは永山の隣だ。ジャワスマトラは南方だ。私もこのようなお子さんに、首吊りたい、首吊りたい」
「さっぱりわからない」
「俺にもわからないんだがね……でも、おかしいな。しばらくお目に掛かりませんでしたがね,どちらの方へおいでになりましたか?下の方へ?道理でお顔の色が・・・赤いね。一杯飲んだのか」
「赤けえから赤ん坊っていうの」
「ああ,赤けえから赤ん坊,黄色けりゃあさくらんぼ、太けりゃ丸太ん棒だ。」
「何言ってんだ」
「時に竹さん、この子はお幾つですか?」
「まだ生まれて七日目だよ」
「おー,初七日か」
「お七夜ってんだよ」
「へえェお七夜。それはまたお若く見える」
「よせよ,一つで若けりゃいくつに見えるんだい」
「どう見ても産まれる前でございます」
(終了)
『談志 最後の落語論』考 第二章について
第二章について。
第二章の冒頭で、「落語とは業の肯定である」という自分の解釈にさらなる進捗があったことを言う。
はっきりとは書いていないが、この「業」というのは「自我+非常識の一部」なのだと解釈した。この「自我」というものが厄介で、第二章を何べん読んでも分からない。
自我を突き詰めると狂気になる。だから狂気もまた、「非常識」の上に位置するものだ
さっぱり分からない。修行や教養、感受性がたりねぇんですネ。
この章で談志師匠は過去の名人とその「自我」や「狂気」について幾度と無く持ち出してきて語っている。おそらく、かつての名人から出る「業」について分解していたのだと思う。
イリュージョンや業の肯定というのを、あえて他の名人で説明するならばこういうことだ、っと。
談志の落語に心酔はすれど、こういった物の書き方であるととてもじゃないが自分の及ぶところではない。だからこそ面白い。いつか自分にも「業」が分かるのだろうか。最後に業についての辞書的な意味を記す。
業
①(仏教)前世の善悪の行為によって現世で受ける応報
②人の力では制御することが出来ない欲望
ベネッセ表現読解国語辞典より
②のほうですよね、師匠が言っているのは。
映画『なんちゃって家族』
アメリカのバカ映画が見たくて視聴。
アメリカン・パイ的なアホ映画かと思いつつ、見たら意外とストーリーがちゃんとしていて拍子抜け。
こういう映画を見る人って、笑いたくて来ている人が多いのだから、もっとアホさを全開にしてくれたほうがいいのに、というのが印象。
偽家族が麻薬の密輸する話なのですが、本当に意外に過程がしっかりしてて、変に拍子抜けしてしまった。途中、母親役のストリップシーンや童貞にキスを手ほどきする感じは、むしろよく撮れてて、アホと真面目の狭間でしっかりと映画やってた。
おとなになって良かったな、と思うことに、こういうバカ映画にカネを捨てる気で入れることと、映画の見方がそれなりに人生観の上から見えるようになったこと。苦労のぶんだけ人の苦労が分かるというのは本当だろう。
でも余計にアメリカン・パイ的な映画が見たくなった。
三遊亭金馬 考
立川談志師匠の名著『現代落語論 其ノ二』の中に第三章(その三)として『回想の落語家』という項がある。『現代落語論 其ノ二』の中でも最も読み応えのある項の一つだ。名人と言われた落語家を談志師匠の目線から分解し、どの部分が上手い、どの部分は不味い、どの部分は超越している、などと述べている。
その切り口は談志師匠独特のものではあるが、普遍性も多分に含んでいて面白い。忘備録的にその内容を書き留めておき、後学の礎にしたい。
3代目三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年10月25日 - 1964年11月8日)は東京本所生まれの日本の落語家。大正・昭和時代に活躍した。本名は加藤 専太郎(せんたろう)[1]。出囃子は「本調子カッコ」。
以上、Wikipediaより抜粋。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%8A%E4%BA%AD%E9%87%91%E9%A6%AC_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
三遊亭金馬を談志師匠は『ラジオの落語を確立した人』としている。それまでの落語界では人物の使い分けをすることを「八人芸」といって邪道としてきたのだが、音声のみで愉しむラジオというメディアではそれを積極的に使うことが求められると睨み積極的に使用した。
これが功を奏し、金馬の人気は絶頂に。三木助や文楽の落語が美学や粋に満ちているとしたら、金馬の落語は大衆性に満ちていた、といえる。
談志師匠いわく、彼の欠点はその「落語美学」を無視したこと。彼くらいの技術があれば、美学を語ることくらいわけないはずだが、それをあえてしなかったことが、彼の欠点だとしている。
また、談志は彼の頭の良さが表れているのはその噺の構成にあると言う。アドリブが適当であるのがその例だそうだ。『やかん』という噺で有名な「矢が飛んできてカーン」というくだり、金馬はあえて最後まで説明しなかった。すでに”客が「やかん」の語源が「矢が飛んできてカーン」というところから来ている、ということを分かった”ということを悟ったからだ、としている。
また金馬師匠については考えたい。
子ほめ 考
今度は子褒めだ。
前座噺となってはいるが、面白い人がやると面白い。アレンジの懐の深さも大いにある。下げだってまちまち。こんなに実力の出る噺は中々ない。しかも現代人にも良く分かる。アンタッチャブル的なすれ違いコント的要素もある。
「こんつぁ、ご隠居。なんでもタダの酒があるってぇから来たんですがね、飲まして欲しいんですがね、タダの酒。」
「なんだい不躾に。タダの酒ってのは。あぁ、八五郎か、お上がりよ。で、何だいタダの酒ってのは」
「へぇっ、隠すねぇ、グズグズいうねぇ、ネタは上がってんだ。いいから飲ませろそのタダの酒ってやつを」
「お前くらい無礼な奴もいないね。何だいタダタダってさっきから。うちにあるのは灘の酒だ。上方に親戚が居てな。毎年蔵出しの時には送ってくれるんだ。」
「へぇ、そうかい。あっしはてっきりタダの酒だと思ったよ。へへ、僅かな違ぇだ、灘とタダ…で、飲ませろよ」
「飲ませないとは言わないが、口の聴き方ってのがあるだろう。人様の家で酒の一杯でもご馳走になろうってんなら世辞の一つでも言ったらどうだい」
「世辞ぃ?そりゃあ無理だ、褒めるところがねぇもの」
「呆れたね。あたしを褒めるのが照れくさいなら家でも褒めたらいいじゃあないか。いつ来てもお部屋の掃除が行き届いております、壁の掛け軸は大層立派でございます、くらいのことを言ってみろ。あたくしもその方に趣味がないわけではない。ついては話し相手に一杯ってな話にもなる。」
「あぁそうか。そういやぁいいんだな。わけないよ。お部屋はいつもキレイキレイ。掛け軸は立派立派のご立派だってなもんだ。…飲ませるか。」
「万事そうだって話だ。そう簡単にその気になるかよ。お前は口の利き方がぞんざいでいけない。ついちゃあ聞くけど、例えば久々に往来で持って友達やなんかと会ったとしよう。なんてぇ挨拶をするんだい?」
「友達?久しぶりだろ?決まってらぁな。『この野郎生きてやがったな』てなことをいうよ」
「あきれたね。相手はなんて言うんだい」
「てめぇより先にくたばるかよ、なんて言ってますがね」
「ますます呆れた。仲間内じゃあいいかもしれないが、こういうことを人様に言ってはいけない。そういうときは、『しばらくお目にかかりませんでしたがどちらへおいでになりましたか。』向こうで持って商売用で上方へとでもおっしゃったら『道理で大層お顔の色がお黒くなりました。でもご安心なさい。あなたなんぞは元がお白いのだ。故郷の水で洗えばすぐに元通りお白くなります。男は色の白いのより、少し黒いほうがにがみが走って良うございます』てなことを言うんだ」
「へぇ、そういえば一杯おごるってか」
「まぁおごるね」
「奢らなかったらご隠居が立て替えるかい?」
「立て替えやしないが、そういう時は奥の手を出すんだ」
「奥の手?懐刀でもってバッサリと?」
「そうじゃあない。歳を聞くんだ。失礼ですがあなたはお幾つでいらっしゃいますか、と。仮に向こうで持って四十五・六なんてことを言えば『四十五にしては大層お若く見えます。どう見ても厄そこそこ』なんて言えばいい。」
「なんでぇその厄ってのは」
「男の大厄は四十五だ」
「女は?」
「三十三だ」
「へぇ、なるほど。三十三は女の大厄、サンで死んだが三島のおせんなんてね。」
「寅次郎がそんなこと言ってたね。」
「へぇ、それで一杯ありつけるってぇのか。」
「悪い気はしないだろうね」
「へ、そんなこと言うのは訳ねぇよ。」
「言ってみなよ、聞いてやるから」
「向こうから人が来たら聞いてみりゃあいいんだよ、ね。こんちは。しばらくお見えにぶら下がりませんでしたと」
「ぶら下がるじゃない、お見えに掛かりませんでした」
「掛かるもぶら下がるも同じじゃねぇか。」
「いいから掛かるでやりなよ。」
「そうすか。しばらくお見えに掛かりませんでした。どちらへずらかってました」
「おいでになりましたか、だ」
「あ、おいでになりましたか。仮に先さんで商売用で上方へっつったら、道理で面ぁ真っ黒け」
「顔の色がお黒くなりました、だ」
「なりましたなりました。で、でもあなたなんざお顔の色がもともと黒いんだから諦めろ」
「元々はお白いんだ」
「あぁそうか、白いんだな。白と黒の差だ。シとクの差。これがホントの誤差だ」
「なにくだらねぇことを」
「で、故郷の水で洗えばすぐに元通りにならぁ、安心しろこのケダモノ」
「それがいけない」
「んで、それでも奢らねぇようなら、奥の手だ。歳を聞くよ。失礼ですがお幾つですか、仮に四十五だったら四十五にしちゃ大層お若い。どうみても百そこそこ」
「厄だよ。」
「そうかい、でも、四十五じゃなかったら弱っちまうね。五十だったらどうするの?」
「五十だったら四十五といえばいい」
「六十だったら?」
「五十五だ」
「七十だったら?」
「六十五だ」
「八十だったら?」
「推してみろ」
「八十のじいさんばあさん押して大丈夫かい?怪我しねぇかな」
「その押すじゃない、推して計れってんだ」
「なるほどね、あ、ついでに聞きてぇんですがね、子どもに対しても小さく言えばいいの?」
「どうしたんだい、藪から棒に」
「いや実はね、あっしの隣の竹のところにね、赤ん坊が産まれちゃってね。長屋の付き合いだとか何とかで、五十銭取られちまったんですよ。悔しいからいつか元をとってやろうと思ってたんですがね。ここで持って奢らせたら愉快だね。」
「そうかい、竹のところのお上さん、お腹が大きいと思ったら赤ちゃんがお産まれになったのかい」
「お産まれになっちゃってね。五十銭ふんだくられなすっちゃった」
「なんだいふんだくられなすっちゃったってのは。そうだな、そういう時は、『このお子さんはあなたのお子さんですか。たいそう福々しゅうございます。おじいさんににて長命の相がございます。栴檀は双葉より芳し、蛇は寸にしてその気を現す。私もこういうお子さんに、あやかりたいあやかりたい』」
「へー、それ一片にいうの」
「だんだんに言えばいい」
「へぇー、うん、このお子さんはあなたのお子さんですか、と。違うと困るね。」
「違やしねぇよ」
「そう?」
「そうだよ。第一、女は黙っているよ」
「そりゃそうだ。んで、大層ふくぶくぶく…ふくぶく、ふくぶくく、ふくぶっぷくぷ」
「何だい舌が回らねぇな、大人なのに変だね」
「あどけなくて愛らしいってぇいうよ」
「馬鹿にされてんだよ」
「せん、せん、洗濯は…二晩じゃぁ乾かない」
「勝手に変な意味を付け加えるんじゃないよ」
「だって全く何にもならないより、いくらか意味があったほうがいいだろ?」
「なに言ってるんだ」
「蛇は寸にして人を呑む」
「蛇は寸にしてその意を現す。私もこんなお子さんにあやかりたいあやかりたい」
「あぁ、その通りその通り、と。出来た」
「出来やしないよ。」
「いいんだ、これだけ覚えれば用はねぇんだ。」
「おいちょっと待ちなよ。飲ませるよ。小言は言うべしなんとやら、だ」
「へっ、ここでもって酔っ払って教わったこと忘れちゃったら台無しなんですから。これからあっしは表で持って色黒捕まえて、四十五捕まえて、竹のところの子どもを褒めて、3便飲むんですからね。へ、また来ますわ、サイナラ。」
次回へ続く